2011年1月29日土曜日

コーランを読んでみて・・・

かなりディープな話。 なぜに世界はイスラム教を恐れるのか? なぜモスレムは攻撃を続けるのか? いろいろ考えたはてにたどり着いたのがとりあえずコーランを読んでみようと言うこと。 「そうだ、京都にいこう」みたいな軽いノリで歩き始めたこの道、かなり険しいものでした。 読み終ってみたものの、後味がちょっとどころか、かなり悪い経験になったしましました。 もう一回読むことはないにしろ、ちゃんと読んだということで一件落着。 落着でもないかな。 あくまでも完了という、充実感も達成感もない、悲壮感すら覚えました。 こんなこと書いてモスレムにFatwah 発されたらどうしよう・・・ 

読書とは本来楽しいからすることだったgo55manにとっては今回は心を痛め、頭をひねりながらの文字との格闘でしたね。旧約・新約聖書も読み(トーラも旧約聖書の最初のいくつかの章なんで読んだことになるかな)、ぬくぬくとした宗教書を想像し読み始めたコーラン、どうも後だしじゃんけんにしか受け取れないのが事実です。 とにかくユダヤ教、キリスト教を下郎扱いし、自分たちが一番なんだという誇示をし、世界を制服するために書かれた書物、それがコーランなのでは・・・

なぜにこのような気持ちになったのかというと、まずはアラーの自己陶酔型崇拝欲というか、信者に求めること。 おれは一番、おれが真の神、などなど押し付けがましく、毎スーラで復唱する様。 いいんですよ、それはそれで。 でもそこまでおらおら系の神様ってあんまり好きじゃないだけのこと(主観的な意見ですが、これはあくまでも読んだ本人の感想です)。 それが通して読んだ感想だからしょうがいないんですが、それこそ言動の自由ですから。

しかし、Golden Rule(黄金律)をこよなく愛するものとしては、コーランの教えに共感できません。 もちろん、イスラムの教えにも黄金律はあるんですが、その黄金律はあくまでもモスレム同士でのことで、他教信者には適用されないみたいです。 特にユダヤに対しての偏見、いや、憎悪は目を見張るものがありました。 

なぜこの結論に達したかというと、イスラム圏ではシャリーアというイスラム教独特の法律があり、それがイスラム圏ではアラーからの聖なる法律として使われてるんですよね。 シャリーアの存在はもちろん以前から聞いていたのですが、その本質を知ったときに、もしかしたらおれ死刑にされてもおかしくなかったかもって寒気がしました。だって、マレーシア行っていろいろ言ったかもって。 批判まで行かなくとも、Dhimmiとしては行き過ぎた発言をしたかも。 (上のリンクはWikiだから信憑性にかけると思われるかも知れませんが、一回読んでみてください。 おれが調べた文献やらからすると、まあまあの解説かなと思います。)

シャリーアで一番気になるのは、非モスレムは人権がデフォルトで侵害されていることかな。 Dhimmiという言葉があること自体がカースト制度というか、士農工商えた非人みたいなとっても古風な思想がモスレムの中にあるという結論に達してしまう。また、シャリーアでは異宗教間の結婚はだめ(正しくはモスレムの女性だけが制限される)、同性愛なんてもってのほか、改宗しようもんなら親子供関係なく死罪。 とっても野蛮な制度だとしか言いようがない。 確かにキリスト教でも同性愛は許されてないけど、殺しはしない。 逆に同性愛が「罪」として認識されているから、「罪を憎んで、人を憎まず」的観点から、過ちを改善しようと努力する。 いきなり逮捕して、あんた同性愛者だから死刑ねってのが理解に苦しむんだよね。

よい点を探したんですが、コーランでは旅人や困った人を助けることを説かれているんで、それはいいことかと。 でも、それしか思い出せないですね、ほかの衝撃が大きすぎて。 

てなわけで、今回はコーランの読書感想文をレポートしてみました。 みなさんもぜひおれと同じ苦しみを味わうためにご一読のほど。 

多分この話には続きがあるかと。例えばアメリカで18歳の女の子が改宗するにあたって、その子の親父と兄貴が彼女を殺すと言ったのに、逮捕されずその子は今も逃走中。 イギリスやフランスではイスラム教徒の街ができ、一般人はそこを歩くと安全は保証されない件。はたまた、ヨーロッパであからさまになった、イスラム教徒の男達が白人や他宗教の女性を誘拐し、その女性を性的奴隷にしていること、などなど。

イスラムに対して固定概念を持ってると言われてもね。 でも、この半年間で調べたことがおれのイスラムに対する概念を形成してしまった。

おぇっ・・・ かなり暗い話題になってしまったことを心からお詫びします。

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