2016年6月26日日曜日

主観・客観的時間経過について

人間とは不思議なもので、時間の経過に違いを感じるものだ。 その時間経過は計測し、予測できるものなのか? あくまでも主観的な経過感覚だけなのか。 

そこで、これから研究を進めるために、以下のアウトラインを作成した。

時間経過: 主観と客観

概要: 時間の経過とは、それぞれの個人が客観的に感じることであり、定量というものがあり得るのかを考察する。 これはあくまでも人間の感じる時間経過のことである。 たとえばセシウム原子時計の計測する1秒は、計測環境が一致していれば世界中どこでも1秒が計れる。 この時間ではなく、あくまでも人間それぞれが感じる時間をさすことを主体とした研究である。

逸話や書物、また人との会話の中で時間経過の違いが顕著に現れることがある。 これはもちろん主観的な間隔を表すものであり、定量的な観点からの経過ではない。 フィクションではよく、待ち遠しいときや苦痛に苛まれるときに1000年の時が過ぎたというような比喩を使用するが、もちろん実際にはそれほどの長時間は経っていない。 が、しかし主観では数時間が1000年にも感じることがあるというのは人間は誰しもが経験していることであろう。 また、反対に楽しい時間を過ごしているときには時間の経過が短く感じてしまうものである。 それらに加え、人間は歳を重ねていくにつれ、一日の時間経過が早く感じるものである。 

これらの現象を加味した上で、客観時間と主観時間には違いがあると思われ、それを計測できるのではないかと考える。 

計測

主観や客観を計測することはとても難しいと思われる。 なぜなら、主観ではその時間を計ることができず、その経過を他人に再現性をもって伝え、別の個人が同じ行動をとり計測したとしても結果には一貫性は望めないからである。 

その計測というのはあくまでも主観であり、計測と再現性は期待できないものであるとまず定義をする必要がある。

だが、もし計測するのあれば、主観だという事を理解した上で時間の経過をある程度一元化し、データとして扱えるのではないだろうか?

計測が可能であるならば、定量的な研究が可能になるのである。


定量的計測方法

計測方法として考えられるのは、ある個人をすべてのものから遮断し、さまざまな刺激を与え、それぞれの刺激に遭遇にしたときにどれほど時間が経過したかを報告してもらうものだと考える。

実験方法としては、以下のような環境・刺激・人間の報告の流れとする。

ア。 隔離は人間が生活していくに必要なものをすべてそろえた環境を整える。 この場合は衣食住が何不自由ない環境がいい。 この環境には外部からの刺激をすべて遮断することで、日の出や日没がわからないように視覚や聴覚からくるものを遮断する。
イ。 他人とのコンタクトは極力避けるが、刺激として嫌いな人や好きな人を登場させる。 登場時間は2時間等に設定し、その後被験者に時間経過はどれくらいだったかを尋ねる。 
ウ。 映画や小説等を趣味(嫌いなものも含め)、視聴してもらい経過時間を報告させる。

このように複数人の結果を収集することにより、データからの経過時間をみることができるのではないかと推測する。


定性的計測方法

定性的な計測では、被験者を使わずこれまでにある逸話やフィクション、また哲学、思想学、宗教等人間が作りあげたものを主とした分析になる。 

アンケートやインタビューを通して情報を収集するとともに、これまでに発表されてきた哲学書、思想学書、宗教書やフィクションを分析していく。 

集まったデータを解析するに当たり、主観的な立場からのデータ解析になり、結果も研究者の主観になってしまうが、人類学的な結果は望める。

成果物

定量的研究の場合はそれぞれの個人が感じた時間経過の結果や複数人の傾向と対策が見えてくる。 ここで、データセットの大きさにもよるが、ここで初めて計測できるものなのか、そうでないかが判断できる。

定性的研究の場合は研究者と先人、またアンケートやインタビューに答えてもらった個人らのコンセンサスが見込めると推測できる。


これはあくまでも研究を開始するためのアウトラインであり、ここから研究の方向と手法を特定していくことが必要になる。 

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